仕事で三陸道河北インターで降りて北上川を下り大川から雄勝へ行って
来ました。途中東松島(矢本)では田畑の表面の土を削り取り、塩分の除去
作業をやり始めている所が有りましたいました。又小学生が沢山亡くなった
大川地区はすっかり片づけが済み何にも無くなって唯野原が続いていました。
雄勝地区も同じで町には建物は無く車の中から遠くまで見渡すことが出来ました
気仙沼から石巻、東矢本、七ヶ浜、荒浜と宮城県内太平洋に面した海岸線
の町・漁村の風景は今ボランティアさんの協力・国・県の働きで片付けが進み、
ただ遠くまで見渡せる土地が広がっているだけです。これからこれまでのような
生活をしていける町を、皆で作り上げて行かなければいけないのでしょうが、
どうしたらいいのか、年よりは考えてしまいます。ゆっくり時間をかけて皆で
話し合って行かなければ駄目なのではないでしょうか。間違った方向に急いで
決めたら、今の日本の行政では修正が出来ないのではないでしょうか、その
ような事を考えると今時間をかけて将来子供や孫たちに話せて聞かせられる
街づくりが出来るのではないでしょうか。後半年議論をしても時間の元は返せる
ような気がして来ました。皆さんどうでしょうか。海とともに生きてきた狩猟民族、
農耕民族日本人の有るべき姿は町の形はどう有るのが理想なのでしょうか。
私は家族とノンビリ日向ぼっこをして自然の風景を眺めてコーヒーを飲んで
いられる家が理想です。
上の二枚の写真は三陸道東松島で自衛隊の矢本航空基地の反対側の
田圃です。本当なら黄色に色づいたお米が一面に見えている所でした。
茶色に見えているところが海水に浸ったところです。
上の二枚の写真は多くの小学生が亡くなった大川小学校の前に供養の仏壇
が作られていました私はこれまで何回となくこの大川小学校の前を通りこの先
にある長面漁港に釣りによく行きました
震災後二週間目位で大川にボランティアで行ったときには小学校前の道路は
無くて先の長面に向けて道路を作っているときでした。この地区には鉄筋の建物
小学校と向こうに見えるビルだけであとは建物は何も無くなっていて唯空き地が
続いていました。
上の二枚は大川から山を越えていった町雄勝町です。この地区も湾が奥まで
続いた町なので津波ですっかり流されていました。ここで目立ったのが同じ
観光会社のバスが5to6台位流されていました。そのバスは何回と無く転げ
まわされたように壊れていました。この地区も写真のように片付けが進んで
何も無くなっていました。
0 件のコメント:
コメントを投稿